『三つの言葉 』 1989年 猪熊弦一郎 画 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵  C)公益財団法人ミモカ美術振興財団


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山間を自由に動き回る牛たち

 豊かな自然に抱かれた神話の里・奥出雲。美しくのどかな田園風景の中には立派な日本家屋が佇み、今では少なくなった日本のふるさとがあります。今回ご紹介するのは、島根県雲南市木次町東日登にある木次乳業(きすきにゅうぎょう)の佐藤忠吉さん。有機農業に取り組み、日本初、低温殺菌牛乳のパスチャライズ牛乳(名称はパスツールに由来)の開発者です。
同じ木次にある「食の杜」は地域の有志によって創られ、7ヘクタールの農地の中に小さなワイナリーや芳醇などぶろくを造る醸造所、国産大豆と天然ニガリを使った豆腐屋、天然酵母のパン屋、地元の食材を使った食事を楽しめるレストラン、チーズやヨーグルトの販売店などがあり、地域の人々が「ゆるやかな共同体」を構成しています。
 食を本来の方向へ導き、地産地消の暮らしであった昔からの「農」へ回帰する目的のために作ったコミュニティーが「食の杜」です。提唱者であり相談役を務める佐藤さんの思いを尋ねました。

命を養う食文化
  -奥出雲に根付く百姓魂



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百 姓 佐藤 忠吉さん


― もともと農家だったと伺いましたが酪農をされた経緯は?

 私の家は最初、養蚕農家でした。親父は繁忙期には人を雇って、絹を出荷していました。横浜には薪炭も出荷していましたがその後、絹や薪炭が衰退し、そこから酪農をやってみようと思いました。当時、百姓は素材を生産するだけで、そこからの加工や販売は都会の企業がしていました。都会の奴隷になってしまっている状況だったため、やるからにはすべて自分達でやっていこうと思いました。

 当初は和牛とホルスタインを飼っていました。牛乳の販路がないので加工と販売を計画していたところ、ある日、牛が繁殖障害や起立不能になりました。その時、農業見習いとして来ていたおおさか さだとし大坂貞利くんが、化学肥料で作った牧草に問題があるのを見つけ、硝酸塩中毒だと判明しました。その化学肥料は当時、国より推奨されていましたが、アメリカでは既に問題になっていることが分かりました。調べた結果、背景にあったのは「大量生産、大量流通、大量販売」の農業基本法でした。都市部に安定した供給を目的にしていますが、そこには安心、安全が欠けていました。

 そのことがきっかけで、化学肥料を廃止し、自然栽培に戻して無農薬の有機農法に変えました。自然の山芝や野草を食べさせると、病気にかかる牛は激減し、とても元気になり、安定して質の高い牛乳をたくさん出すようになりました。それから私は、世界中を回って牛を探し、乳牛の中で栄養のバランスがよいブラウンスイス牛を輸入しました。日本では珍しい乳牛で、農林水産省が認可するのに3年もかかりました。アメリカから輸入しましたが、今はアメリカが輸出禁止にしています。牧場に適したところは工場や道路になっていましたので、牛がストレスなく運動できるよう、山地酪農を選びました。

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山地酪農を掲げる日登(ひのぼり)牧場のブラウンスイス牛

 牛乳の殺菌方法も、当時は短い時間で殺菌し、長持ちさせる高温短時間殺菌でした。この方法は栄養分が損なわれ風味も悪くなります。私たちは飲む立場から考えようということで、低温で時間をかけて殺菌をしています。牛乳本来の姿をなるべく崩さないように、絞りたての香り・味も生に近いもの、それがパスチャライズ牛乳です。ヨーロッパでは、パスチャライズ牛乳が主流で、本来伝統を大事にし、自給自足の中で生産されたものを生で飲むのが基本です。

 農業政策は全て作る側からの政策で、食べる側からの政策ではありません。「農」と「農業」の違いですが、農は自分達が食べるもの。しかし、そこに業が入ると儲けないといけません。私は「人のために耕作するのではなく、自分のために」という原点に帰ればよいと考えます。人の為と書いて「偽り」になります。「人のためではなく自分が安心できる物」を食べるのです。今の食品は添加物を食べている様なもの。食べる側の立場に立って、作るかどうかが大切です。命のあるもの、それを食べて生きているのですから。

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一面に広がる有機畑


― ご苦労があったことでしょう


 常識と思われることを一歩下がって見てみると、非常識なことが多くあります。書物を見て、自分でやってみて、よいか悪いかを決めていきました。実践と体で覚えていくことを、親父から教えてもらっていました。親父からは大きな影響を受けたように思います。実は、私は小学校しか出ていません。頭をからっぽにするから、人の話が入ってくるのです。
 戦後の農地改革で、財産は全部なくなりました。お金は全然入ってきません。農家でありながら花を作ったりして、檀家寺の前で花を売りました。弟はその花代で学校に行きました。父はなかなかのアイデアマンでしたね。知恵が大事だと思います。

 自分は世界中の人の60億分の1です。多くの人との出逢い、その人の影響を受けます。最初は「私」はありません。生まれてから親の影響を、育つ時は先生の影響、友人、周囲の影響を受けて私があります。その集大成が今の自分。いろいろな人たちのそれぞれの考え、行動の善し悪し、地上に存在する関係の中に、自分は存在します。人との繋がりを大事にすると、必要なときには、何かが付いてくるものです。


― 百姓と名乗っておられるのは

 百姓は百姓です。裁判官でもないし警官でもない。ただそれだけの話です。


― 百姓は百の作物を作る人。米作り、野菜作り、微生物学、栄養学、気象天文学などに通じる知恵を駆使し、土作り、炭焼き、牛飼い、養蚕、大工までする人と伺いました

 私、自分、それがし。一人称だけでもその人の印象は変わり、不動のものではありません。言葉により影響を受けます。百姓が良い格好しようと思っても、無理があります。自然体で居るということが大事です。昭和40年くらいからそうして生きて来ました。自然体で、自分ができることをしているのです。

 当時、加藤歓一郎という人がいました。小中学校で教員を務めたクリスチャンで、戦後に学校・社会教育を産業教育として体系化した、森信三が認めた全国でも注目された郷土の人物です。
 私たちもその影響を受けました。仲間の大阪貞利くんは保護司をしていました。酪農をしていると服に牛のフンがつきます。しかし彼は汚れた服のまま堂々と人前に出て話をしました。

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農園シンボルの築130年の茅葺き古民家と佐藤さん


― 有機栽培で気をつけることは

 有機栽培は当たり前のことなのです。昔は和牛を飼って、芝を刈り牛に喰わせて、八反の田んぼをやっていました。土地にあったものを、自然に逆らわない方法で作ることです。


― ネットワーク作りで大切なことは

 自分が変わることです。人に求めるのではなく、自分が変わればその中でお互い認め合うことにより進歩がある。地域的広がりの中でゆるやかな共同体をつくることです。
 幸い私は大坂貞利くん、木次の田中町長に出会いました。誰と出会うかは一期一会です。一緒に牛を飼い始めた時、周囲にいい人がいて本当によかった。誰と心が引き合うか、そう思います。ただ、いい人ばかりではありません。悪人とも付き合わないといけない時もあります。その場合は「片足は濁流に、片足は清流に」の考えで生きています。自分がいかに高くとまっていても、世の中に受け入れられません。世の中の流れに沿って生きていくことは、濁流なのです。


― TPPをどう思われますか

 全然何とも思っていません。最終的には自分のモノには値段を付けて食べないでしょう。自分のためになり、自分を理解してくれる人だけに、提供できるようなことをしていれば、成すべきことは成されます。「日本の食糧は、今どういう姿なのか」ということを考えてください。

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人気の「杜のパン屋」。国産小麦のみを使用し、添加物は一切不使用

― 地域は活性化より鎮静化と言われていますが


 活性化すると片方が悪くなります。一緒によくなっていくためには、どうすればよいかが必要だと感じます。お金は腹一杯にはしませんが、お金があると、人によってその人をダメにする例もあります。足るを知ることですね、小欲知足です。


― 苦労を苦労と感じておられないですね

 天災は善人には試練、悪人には天罰です。私も水害を受け、家が倒れ、4歳の子どもを亡くしました。いろいろなことがあったから今があります。失敗のない人生は失敗です。今のあなた方の時代は学校の試験はやさしく、就職は売り手市場と、苦労は少ないかもしれません。青年期にいかに苦労するかは「私」の形成にとって大きいことです。
 軍隊で5年間生活しましたが、極限の中だからこそ、学ぶことも多かった。人の言葉を聞き、常に周りに集中する。その訓練があり助かりました。一人のミスで、全員がダメになるところですからね。

― 後世に残すこと、今後の展望は

 教養があるかないかより、今日用事があるか、ないかでしょう(笑)教養は時にその人の邪魔になることがあります。
 これからも常に何かの目標を持ちたいです。簡単に言うと、朝起きてすることがあることが大事ですね。目標がないと年をとります。過去を肯定して、今を受け入れ、自然と共に生きていきます。

― ありがとうございました


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佐藤忠吉さん
1920年、島根県雲南市木次町生まれ。
小学校卒業後、家業である農業を継ぎ、55年より牛乳処理販売を始める。
69年に木次乳業社長に就任(現・相談役)72年には木次有機農業研究会を立ち上げ、地域内自給にも取り組む。
78年、日本で初めてパスチャライズ(低温殺菌牛乳)牛乳の生産・販売に成功。
2012年に雲南市初の名誉市民となる。有機農業マイスター。
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インタビュー/久保和夫
協 力/宇田川和義