『三つの言葉 』 1989年 猪熊弦一郎 画 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館蔵  C)公益財団法人ミモカ美術振興財団

女性の決意 ―自分の足で生きていこうよ―

女性の決意 ―自分の足で生きていこうよ―
  日本ブラインドサッカー協会 理事長  釡本美佐子

 今回ご登場いただくのは、日本ブラインドサッカー協会理事長の釜本美佐子さんです。現在73歳で一人住まい。2年前からは完全に視力を失っている。そんなことはみじんも感じさせない明るさとパワーが彼女にはあります。現在よりも女性が活躍することがはるかに困難な時代に、自らの手でキャリアを積み重ねて自立を確立。さらに完全に失明する中でもにこやかに元気にボランティア活動にはげむ釜本さん。さまざまな悩みを抱えている女性(男性も!)が多い今日、そんな彼女からエールをいただけるのではないかと思い「自立」についてお尋ねしてみました。


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釜本美佐子
かまもと みさこ)
 1940年京都府生まれ。日本交通公社(現JTB)ルック部コンダクター第一期生として海外添乗を行い140 余国へ渡航。日本一のツアコンとしてメディアに掲載される。その後、釜本・エンタープライズを設立して独立。1993年に自身が網膜色素変性症を患い、全国視覚障害者外出支援連絡会会長、網膜色素変性症協会会長などを歴任。2001年に視覚障害者サッカーを導入するため韓国へ視察に行き、2002年の日本視覚障害者サッカー協会(現日本ブラインドサッカー協会)設立と同時に理事長に就任。


自立を目指したのではなく、結果的に自立していました
 私は女性の自立を目指して私の人生を過ごしてきたわけではないのですが、結果的に自立していたように思います。人生においては色々な意味で決断をしなければいけないことがありますが、高校卒業時、大学に進学し自分の職業を持ち、プロになろうと思いました。そうすれば、親に迷惑を掛けなくても生きていけると思ったからです。そうしたら高校の進学部の先生から「4年生の大学に行ったらお嫁にいけないよ」と言われました。そんな時代でした。
 大学へ入って1年間悩んだあげく、私はイギリス史をやろうと決め、さまざまな国の歴史の本も読みました。それから就職しましたけれど、就職してみて驚きましたね。お給料が2万円。同級生の中ではそんなに悪い方ではないと思いながらも、これで私が一人で生きて行けるかしらと思ったわけですよ。こりゃたいへんだと思い1年で辞めました。
 その後、大阪万博を機に旅行業に入るというのを決め、東京のJTBで通訳案内業の資格を活かして外国人旅行というのをやりました。2年間やってみて、これでもお給料は納得できないと思った時に、会社が海外旅行専門のセクションをつくることになり、それがツアーコンダクター1期生になりました。海外に支店もなく、パリとローマにしかガイドがいなかった時代ですから、ヨーロッパの歴史を勉強してきた人間にとってみたら、通訳をしながら自分の勉強したことを発表できてとても仕事は楽しかった。もちろんいろんなトラブルはあります。現地でバスが来ない、ガイドが来ない、ホテルが取れてない、飛行機がストライキで飛ばないなど。また社会的に立派なお客さまが多くて精神的にはたいへんでしたけれども、滅多に会えないと思う人にも会えたので、非常にやりがいのある仕事でした。
 ところがその後、あちこちに現地の日本人ガイドがいるようになり、段々と仕事がつまらないなと思うようになります。1985・6年位かな。それにこの仕事を始めて15・6年位経っていましたので辞めようと思いました。そこで独立して、今度は旅行の計画を立ててお客さまを募って一緒に出掛けるという旅行業を始めました。その後、英語を子どもたちに教えるという生活に変わりました。自分の今までの経験を生かして子どもたちに教えていくことはとても楽しかった。

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ツアー・コンダクターの第一人者としてご活躍され、旅行関連の著書も多数執筆


経済的自立が一番
 よく考えてみると私は将来ずっと働きたいと思っていました。父親の給料に全員がぶら下がるのは嫌だから、結婚しても仕事はしたいと思っていました。男の人って転勤があるじゃないですか。そうすると転勤に従って一緒に動くことでは私のキャリアを積むことはできないと思いました。じゃあ一人で生きていこう。結婚はしない。ただし60歳になった時に、一人で寂しい、孤独だとは絶対に言うまい、という決意のもとに結婚しないということを決めました。
 経済的に力を付けるためには喜んで仕事をしないといけない。やっぱり自分が喜んで、しかも能力を発揮して、なおかつお客さんにどれだけ喜んで貰えるか。私と一緒に行って楽しかったとか、面白いもの見たとか、よい買い物したと言ってもらうことが私の仕事としての喜びだと思いました。しかも自分自身の視野も非常に広がった。普通ならば観られないような素晴らしい絵画も、聴けないような音楽も色々な所に行って楽しめました。そして、自分が勉強したことを現地で確認することもできましたので、仕事をやっていて本当に楽しい人生でした。
 JTBのコンダクターをやり始めて収入が安定し、徐々に増えてきたので貯金を始め、36歳の時に1千万円を持っておりました。でも1千万円を貯めるというのはもの凄く苦労しましたね。120円のバス代を節約するのに今日は歩いて帰ろうということもありました。本当にお金を貯めるのは難しい。大きくするための雪だるまの芯の部分、つまり100万円を貯めるまでがとてもしんどかった。36歳の時、1千万円を頭金に1900万円でマンションを買ったかな。10年位そこで住みながらそれを2500万円で売りました。さらに大きなマンションを5千万円で買って50歳代で7千万円で売りました。高度経済成長というのは不動産が値上がりしたという意味でいい時代だったかなと。旅行というのは場所を移動しますので、ちょっと知恵を働かせれば儲けられるいい面もあります。当時色々な勉強しまして、切手や金や骨董品、それにエミール・ガレなどに手を出しました。結果として失敗して、やはり投資信託や株の方が時代を超えて自分の財産を保全していくことができるのかなと思っています。62歳で仕事を辞めましたが、もうかれこれ10年間、家のローンも払いながらまだ生きてきているので、かなりお金を貯めることができていたと思います。

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第5回全国善意通訳の集い交流会にて


安全に生きるための危機管理
 これだけ目が悪くなって今度は生きて行く上の生活で、たいへんな思いをするようになってきました。ただ私自身は海外旅行で危機管理というものを覚えてきました。当時としては、例えばアメリカの高層ホテルでエレベーターを降りると後ろから追いかけて部屋まで押し入ろうとする人がいる時代でしたから。完全に眼が見えなくなっても、例えば「宅配便ですよ」と言われた時に「はーい」って言ってドアを開けることはしません。「どなたからの宅配便ですか」と聞いて、自分が知っている人だと宅配をお受けすることにしています。そうすると変な人が入ってくるということはまずありません。安全に生きていくためには必要な危機管理です。
 かなり見えなくなってきた時に「本当に失明したらどうしよう」と思い、まだ白杖を持つ必要がない時に目をつむって歩きました。歩けるはずがない。夜は見えないし、暗いところに入ると全然見えないし...という状況がかなり長く続きました。やがて、本はルーペでも読めない、書いた文字が見えない。今から三年くらい前に文字が見えなくなってきていますから、役所から来る書類など返事を出さなきゃいけないじゃないですか。マンンションの管理人さんに「これどこから来ている?」と読んでいただいて、返事するべきものは書いていただいたのです。でも、キチッと書いてくださっただろうか、という猜疑心が現れて。それで、自分を「嫌な人間になってきたな」と情けなく思いました。ところがそれに対してお返事が来て、この人に対しては大丈夫だということがだんだん分って来る。
 そのうちに、今度は歩くのに道が分らなくなって来ました。それでヘルパーさんに来てもらうようになって誘導のされ方を工夫しました。自分が怖いと思ったら、相手を後ろにグイッと引っぱるんですよ。その人に命を預けて普通に歩けるという風に。時々、間違ったことがあるとイラっとすることもありますけれど「ダメ」と反省をしながら人格円満な方へ向かいつつあると思っております。

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ブラインドサッカーを楽しむ釜本さん


自らの健康管理に責任を持つ
 今よく「自立」といいますけれど、視覚障害者として自立しなければいけないと思うのです。高齢者としての自立ということもあります。「歩く」ということはヘルパーさんにお世話になっていますが、料理はまだできます。それから部屋の掃除は掃除機がやってくれますし、洗濯は洗濯機がやってくれる。大げさに言えば「ちょっとくらい机の上にホコリが溜まっていても人間死なないわよ」と言っています。まだまだ自分が元気でいるなら、ヘルパーさんに頼らなくていいところは頼らないで自立しようと思っています。
 できるだけ風邪を引かないようにする。風邪を引いても、医者には行かない。むやみやたらに薬を飲まない。自分で治す。私の生活スタイルをいうと皆さん「ストイック」というけれど、私はその中で楽しんでいます。やっぱり健康を維持するためには、柔軟体操もストレッチもやらなければいけない。あるいはウォーキング、ランニングもしなければいけない。でもそこで一汗かくことは楽しいことじゃないですか。
 最近病院のロビーが高齢者のサロンになっていますね。そして「あの人いないね、どこか悪いのかな」という会話が高齢者の間でなされるのはもってのほかだと思うのですよ。お医者さまは本来なら予防医学をもっとPRして、そして皆が病気にならないような生活はどうあるべきかを指導してほしい。我々はもっと賢く生きなければいけない。日本は高齢化社会とは言いながら、本当に健康な高齢者社会なのかしらという思いもあります。私たちは40代、50代から自分の健康管理には責任を持つべきだと。


東京でブラインドサッカーの世界選手権
 ブラインドサッカーはまさしくサッカーです。普段ならば誰かに手を引いてもらっている視覚障害者が、全身全霊でスピードをつけて走っています。そのスピードとテクニックには驚かれると思います。
 今年は11月に東京・渋谷でブラインドサッカーの世界選手権があります。しかも、日本を含めて12ヵ国の強豪が集まります。必ずや感動に出会えますから、ぜひ会場に足を運んでいただければと思います。

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あたりが激しく、見る側もいつしか手に汗にぎるブラインドサッカー


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ブラインドサッカーについて

 視覚障害を持った選手がプレーできるように考案された5人制サッカーで、1980年代初頭に開発され、ヨーロッパ、南米を中心に広くプレーされてきた。日本では1990年代から独自のルールでプレーされていたが、2001年からIBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)の国際ルールに沿った普及が始まる。2002年10月に日本視覚障害者サッカー協会(現日本ブラインドサッカー協会"JBFA")が発足。今回ご登場いただいた釡本美佐子さんが初代理事長に就任する。
 全盲のフィールドプレーヤーがアイマスクを装着して音の鳴るボールを蹴る全盲クラスと、弱視者がアイマスクをせず、ほぼフットサルと同じルールで競技するロービジョンフットサル(弱視クラス)という二つのカテゴリーがあり、視覚障害者と晴眼者(ゴールキーパー)が共にプレーすることが可能。普段動く範囲が限定されている視覚障害者にとって、走り回ることの自由と喜びを感じる機会を提供する「自由をくれるスポーツ」と言われており、そのスピードも技術も我々の想像をはるかに超える。
 日本では全国に約20のクラブが存在するが、まだまだ一般に認知されているとは言い難い。4年に一度開催される全盲クラス世界最高峰の戦い、世界選手権が今年の11月に東京・渋谷で、そして2020年にはパラリンピックも東京で開催される。この機会に大いに盛り上げていきたい魅力的なスポーツだ。
 
大会毎に随時個人と団体のボランティアを募集しています。お気軽に協会までお問い合わせください。
日本ブラインドサッカー協会
TEL:03-6908-8907
http://www.b-soccer.jp/

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