私の宿命は、日本とベトナムの架け橋になること

日本とのつながり

 戦後70年。今やベトナムにとって日本は最大の援助国となり、昨年日本の外務省が実施した世論調査では、46%のベトナム人が「最も信頼できる国は日本」と回答。2位のロシア16%を大きく引き離したそうです。これは、1986年からのドイモイ政策により貿易などが発展し、ODAは日本が最大の支援国となり、国際空港をはじめ多くのインフラの建設が、日本の支援によるものであることをベトナム人が感謝しているからだと思います。
 しかし、私が子どものころは、日本のことをあまり良い国だと思わない人も多く、残留日本兵の子孫である父と私の兄弟は、友達から「コンライ(混血)」といじめられたこともありました。でも私は、子どものころからずっと日本への憧れを抱いていました。そう思い続けることができたのは、祖父の存在があったからです。

 私の祖父は、福岡県苅田村(現苅田町)で生まれ、1939年日本軍に入隊、43年にベトナムに派遣されました。日本軍がフランスの植民地であるベトナムに進駐したのは、太平洋戦争開戦前年の40年9月。終戦時は、8万人余いた日本軍が、1年半後には600人となっていました。45年9月、「ベトナム民主共和国」として独立しましたが、抗仏戦争開戦と同時に祖父はベトナム北部タイグエン省のベトナム軍事学校の教官となりました。47年にベトナム人の祖母と結婚し、父が生まれました。54年に北ベトナム政府は、旧日本兵の帰還を決めました。しかし、ベトナム人妻子同伴での帰国を認めなかったので、私の祖父はベトナムに残りました。そして、抗仏戦争が終わると祖父は教官を辞め、薪を売ったり、鍛冶で刃物を作って生計を立てていましたが、60年には妻子を連れての帰国が認められたため、年長の父を残し、祖母とともに日本に帰国しました。

 80年に還暦を目前にした祖父が、祖母とともに再びベトナムに来てくれたとき、私は6歳でした。そのとき「僕の心はベトナム人なんだよ」と微笑んでくれた祖父の姿が忘れられません。父をベトナムに残して20年間、ずっと父とベトナムのことを思い続けていた祖父の気持ちが、幼心にも伝わりました。

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1995年福岡にて
左から 父 ホアン・スアン・ナム、祖父 元山久三、私


自分には何ができるか

 私が、初めて父とともに日本の福岡を訪れたのは95年。父にとっては、生き別れた兄弟との35年ぶりの待ちに待った再開でした。しかし、1か月の滞在中、言葉の壁がある兄弟は会話が弾まず、曇っていく父の表情を見て「私が通訳となり、家族の絆を強めたい」と、一生懸命に日本語を勉強することを決心しました。祖父は私の気持ちを理解し、ハノイの外国語大学(日本語専攻)の学費や下宿代を私に支援してくれました。4年制大学を卒業して、ある程度日本語が話せるようになって、日本に住んでいる親戚とのコミュニケーションをはじめ、日本語を使った仕事もできるようになり、「私が日本とベトナムを結ぶ架け橋になる」という夢が叶いました。父は、自分ができなかったことを娘が果たしてくれたという思いから、ずいぶん私を誇りに思ってくれたようです。

 現在は、若い世代のほとんどが戦争を知りません。しかし平和な世界に住んでいる私たちは、祖父の世代が経験してきた歴史を忘れてはいけないと思います。私にできることは、悲しい事実を伝えるだけではなく「僕の心はベトナム人なんだよ」と微笑んでくれた祖父のように、その国のことを思い続け、そこにいる人たちに何ができるかを考え続けることが大切だと思っています。


筆者:日本国際眼科病院(ベトナム・ハノイ)
ホアン・ティ・タイン・ホアイ
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